お墓の必要性を今一度問う(その1、真宗門徒の場合)

お墓とは本当に必要なものなのでしょうか。
日本には様々な宗派があり、お墓の在り方に対しいろいろな解釈がありますが、少なくとも浄土真宗(真宗各派)の教義ではお墓に直接的な必要性を認めません。端的に言うと、墓は不要。難しい言い方をすると、浄土真宗は「阿弥陀如来の本願により、すで極楽往生は決まっている」ことを信じる宗派ですから、わざわざ死後に「供養」する必要がありません。宗祖親鸞は「父母の供養のために念仏したことは無い」と歎異抄に書かれていることからも、墓や供養のありかたによって、故人の来世がどうにかなるものではないのです。また、覚如の「改邪鈔」によると宗祖親鸞は「親鸞、閉眼せば、賀茂河にいれて魚に与うべし(親鸞の死後、遺体は鴨川に捨てて魚の餌にしろ)」と語ったとされています。この遺言とも言うべき教えは聞き入れられず、親鸞の墓は本願寺となり今に至るわけですが、墓や遺骨には何の意味も無いことを宗祖自らが伝えているのです。葬儀も同様です。
その一方で、我々は、真宗門徒であると同時に、慣習や社会通念も意識しなければいけない現代人であることも事実です。昨今は信仰の在り方について、かなり寛容になってきましたが、それでも墓は無く、葬儀も行わないというのでは、非常識だと思われかねません。特に地方部ではまだまだ保守的なところが多く、個人の信仰よりも地域の慣習を優先しなければいけない空気感が強く残っています。何より、遺族が恥をかくことになりますからね。それに、いかに真宗門徒と言えど、死は常に不安なもので、丁重に弔われたいと思うのも、また自然なことです。

結局は、当人がどう考えるか、でしょう。
私自身は墓など必要ないと思いますが、父母が手厚い供養を望むのであれば、それを叶えるのが、人としての在り方だと思います。

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